「建築家・山田守の住宅」展の機会に山田守の自邸を見学してきました。山田守は20世紀に活躍した日本近代を代表する建築家のひとり。東京南青山にある自邸が住宅遺産トラストにより、家族協力のもと、没後50年を記念して展覧会開催と建物の一般公開となった。
(※内観の撮影は特別な許可を得て撮影しました)
1959年竣工。敷地面積382m2、建築面積m2、延床面積256m2(何れも建設当時)。RC造地上3階建て。1階には「蔦珈琲店」という喫茶店があると聞けば知っている方も多いのではないだろうか。
65歳で初めて建てた自邸について「都内に木造平屋住宅を建てることは都市計画上保安の点に就いて自他の迷惑になり、都市の立体化にも反する。都内に住宅を持つことは必ずしも良くないが、ここは住宅専用地域であって都心に関係の多い仕事を多く持った人が住むところではある。不燃化立体化と美しい環境をつくることに協力するような家を造って置けば、将来も何かに利用されるであろう。」と書いている。
山田は1920年逓信省(現在の総務省)に入省、営繕課で逓信建築と呼ばれる電信電話局の設計や、逓信病院の設計を多く手掛ける。'45年に退官し独立、'49年に山田守建築事務所設立。東海大学の設立に携わり、建設工学科の教授にも着任。その後日本武道館(写真)や京都タワービルなどを手掛けたことが有名だ。
建設当初の平面図。赤い部分はプライベートな自身と家族の空間、青い部分はパブリック空間で自社オフィス、緑の部分が外部空間になる。
(作図:大宮司勝弘)
竣工模型。ここで上に書いた「将来も何かに利用されるであろう」という部分。1階はピロティになっているが、山田の死後テナントスペースとして増築し、現在の蔦珈琲店が入居している。RCのしっかりした躯体と美しい庭のおかげで、今でも人々に利用されているのだ。
また3階のテラスも居室が増築された。
青山学院大の横、アイビー通りから。1階部分は殆ど見えず、2階のコーナー窓や奥の大開口、軽やかな庇は角にRが取られて、繊細な手摺がバルコニーを囲っている。
裏庭からエントランスへ。階段を中心としたY字型プランは、代表作の一つ東京厚生年金病院で採用した手法だ。
櫛引された外壁が柔らかな表情を生んでいる。
階段室には螺旋階段が納まる。ここはオフィスがあったときのエントランスで、住居用の玄関は庭の奥にある。
(現在オフィスは千代田区に)
2階。階段室に合わせた円弧状の玄関鉄扉。住居用の玄関は別にあると書いたが、普段は閉じられていたそうだ。
たたきはトラバーチンと思われる。
2階住居部は現在ギャラリー「蔦サロン」として一般利用される。オフィスがあった3階は増築され、住居として利用されているため立ち入りはできない。
玄関の “欄間” と呼ぶべきか、サンゴパンのプリズムガラスはコンクリート打設時に埋め込んで施工した。
玄関から右に折れ曲がって廊下を見る。奥に子供室、左に座敷。
地窓とハイサイドから北側の光が薄暗い廊下を照らす。
子供室。この日は山田の作品がパネルやスライド、模型で紹介される。
青学アイビーホールに向いたコーナー窓。開口端部はアクリルの曲げ板。
竣工時アイビーホールはまだなく、テニスコートがあった。
背後はシンメトリーで絶妙に分割された構成。
座敷(居間・客間)。入ると見学者は必ずこの眺めに一度動きを止めてしまう。庭は大きく盛り土し2階からの眺めをメインにされているため、大開口から季節毎に彩りを変える庭木が一面に美しく切り取られている。
中央の仕切りによって、左に八畳間、右に十畳間になる。
モダンなアレンジがなされた床の間と書院。垂れ壁の落掛(おとしがけ)や、床板の床框(とこかまち)、床柱を廃したシンプルな構成で、付書院までが水平に連続する。
床脇(とこわき)は反対側に。違い棚は廃されているものの、天袋と地袋は設え、床柱もあり、向かい合わせながら和室の伝統的な基本構成がなされている。床脇のパースラインが水平の欄間や大開口に伸びていく様が美しい。
直線的な空間に雲を思わせる有機的な欄間がアクセントとして効いている。
大開口のサッシュは改修されているが、オリジナルでは太い水平の鉄サッシュ(縦には細いサッシュ)が上下に2本、欄間と、地袋及び付書院の高さに入っていたことから、より水平ラインが強調されていたと推測される。
(photo: 国際建築1959年12月号)
座敷を仕切る右上の細い鴨居はスチールロッド+パイプで吊られ、欄間にはアクリル板が嵌められている。縁側(山田は図面でバルコニーと呼んでいる)には上の写真のように藤製のイスとローテーブルが置かれた、アーバンリゾートの趣だ。
右奥の白い扉は山田の位牌が安置されている仏壇が納まる。
仕上げに砂壁や木材が多用されているため、ついRC造だということを忘れてしまう。これだけのロングスパンの天井スラブを支えるために、中央の柱は実は鉄骨で、木の柱に見えるように杉板で被覆されている。梁は逆梁だ。
120°の角度で開く大開口。赤いノムラモミジとサクラの花びらがつくり出すコントラスト。
公開時間前のひととき。展覧会でもあるため、貴重な図面や模型も展示されている。奥の左は展示を担当した岩岡竜夫 東京理科大学教授、右は山田守の研究者でギャラリートークの講師を務めた大宮司勝弘 東京家政学院大学助教。
知る人ぞ知る、山田こだわりの畳は、畳縁(たたみべり=畳の長辺につく帯)が片側にだけしかなく、軽やかに見えるよう演出されているというが、通常はご覧のようにカーペットが敷かれているため見ることはできなかった。
玄関、キッチン方向を見る。電話台がニッチに納まる。ニッチとキッチンの開口の角にもRが取られている。
キッチン。山田によるデザインで収納がびっしり。ガスコンロ以外ほとんどオリジナルのまま。家政学部で教鞭を執る大宮司氏によると、「システムキッチンの歴史的資料」とのことだ。
奥の茶室方向。開口の角はアクリルの曲げ板で200R。曇っているのは経年劣化によるもの。
角の室内側を見てもRがついている。階段は3階の現居住エリアで立入禁止。
茶室は縁側にせり出している。
ござが敷いてあり確認出来ないが、下には四畳半のため卍型の回し敷きされ、さらに天井のヨシ張りも鏡像のように回し敷きで中央に照明が設えてある。
引き戸の向こうは3畳の小さな部屋がある。
開放的な茶室。
1階に蔦珈琲店が覗く。庭には以前池もあった。
壁面のパネルには山田守建築事務所で保管されているオリジナルの手描き図面。これは座敷建具の納まりや柱の実寸図面で初公開だそうだ。
複写されたものは綴じられ、手にとって閲覧できた。
大型建築を数多く手掛け、住宅は自邸も含め4作のみ確認されている。
山田守。「一度本当の家に住みたいという老妻の希望もあり、65才にして初めて止むを得ず本当の家を建てることになった。」と言ったように、あまり乗り気でなかったようだがこのこだわりだ。
藤岡洋保氏のコメント。「山田の特長は、なによりもその造形能力の高さにある。その伸びやかな造形は他の追随を許さない。」「彼は、ディテールを緻密に整えるタイプの建築家ではなく、建物全体を一望する視線に耐え得る造形を目指した。広い敷地に自由に造形できる機会を与えられたときに力を発揮するという、日本では珍しいタイプの建築家と言える。」
(※内観の撮影は特別な許可を得て撮影しました)
1959年竣工。敷地面積382m2、建築面積m2、延床面積256m2(何れも建設当時)。RC造地上3階建て。1階には「蔦珈琲店」という喫茶店があると聞けば知っている方も多いのではないだろうか。
65歳で初めて建てた自邸について「都内に木造平屋住宅を建てることは都市計画上保安の点に就いて自他の迷惑になり、都市の立体化にも反する。都内に住宅を持つことは必ずしも良くないが、ここは住宅専用地域であって都心に関係の多い仕事を多く持った人が住むところではある。不燃化立体化と美しい環境をつくることに協力するような家を造って置けば、将来も何かに利用されるであろう。」と書いている。
山田は1920年逓信省(現在の総務省)に入省、営繕課で逓信建築と呼ばれる電信電話局の設計や、逓信病院の設計を多く手掛ける。'45年に退官し独立、'49年に山田守建築事務所設立。東海大学の設立に携わり、建設工学科の教授にも着任。その後日本武道館(写真)や京都タワービルなどを手掛けたことが有名だ。
建設当初の平面図。赤い部分はプライベートな自身と家族の空間、青い部分はパブリック空間で自社オフィス、緑の部分が外部空間になる。
(作図:大宮司勝弘)
竣工模型。ここで上に書いた「将来も何かに利用されるであろう」という部分。1階はピロティになっているが、山田の死後テナントスペースとして増築し、現在の蔦珈琲店が入居している。RCのしっかりした躯体と美しい庭のおかげで、今でも人々に利用されているのだ。
また3階のテラスも居室が増築された。
青山学院大の横、アイビー通りから。1階部分は殆ど見えず、2階のコーナー窓や奥の大開口、軽やかな庇は角にRが取られて、繊細な手摺がバルコニーを囲っている。
裏庭からエントランスへ。階段を中心としたY字型プランは、代表作の一つ東京厚生年金病院で採用した手法だ。
櫛引された外壁が柔らかな表情を生んでいる。
階段室には螺旋階段が納まる。ここはオフィスがあったときのエントランスで、住居用の玄関は庭の奥にある。
(現在オフィスは千代田区に)
2階。階段室に合わせた円弧状の玄関鉄扉。住居用の玄関は別にあると書いたが、普段は閉じられていたそうだ。
たたきはトラバーチンと思われる。
2階住居部は現在ギャラリー「蔦サロン」として一般利用される。オフィスがあった3階は増築され、住居として利用されているため立ち入りはできない。
玄関の “欄間” と呼ぶべきか、サンゴパンのプリズムガラスはコンクリート打設時に埋め込んで施工した。
玄関から右に折れ曲がって廊下を見る。奥に子供室、左に座敷。
地窓とハイサイドから北側の光が薄暗い廊下を照らす。
子供室。この日は山田の作品がパネルやスライド、模型で紹介される。
青学アイビーホールに向いたコーナー窓。開口端部はアクリルの曲げ板。
竣工時アイビーホールはまだなく、テニスコートがあった。
背後はシンメトリーで絶妙に分割された構成。
座敷(居間・客間)。入ると見学者は必ずこの眺めに一度動きを止めてしまう。庭は大きく盛り土し2階からの眺めをメインにされているため、大開口から季節毎に彩りを変える庭木が一面に美しく切り取られている。
中央の仕切りによって、左に八畳間、右に十畳間になる。
モダンなアレンジがなされた床の間と書院。垂れ壁の落掛(おとしがけ)や、床板の床框(とこかまち)、床柱を廃したシンプルな構成で、付書院までが水平に連続する。
床脇(とこわき)は反対側に。違い棚は廃されているものの、天袋と地袋は設え、床柱もあり、向かい合わせながら和室の伝統的な基本構成がなされている。床脇のパースラインが水平の欄間や大開口に伸びていく様が美しい。
直線的な空間に雲を思わせる有機的な欄間がアクセントとして効いている。
大開口のサッシュは改修されているが、オリジナルでは太い水平の鉄サッシュ(縦には細いサッシュ)が上下に2本、欄間と、地袋及び付書院の高さに入っていたことから、より水平ラインが強調されていたと推測される。
(photo: 国際建築1959年12月号)
座敷を仕切る右上の細い鴨居はスチールロッド+パイプで吊られ、欄間にはアクリル板が嵌められている。縁側(山田は図面でバルコニーと呼んでいる)には上の写真のように藤製のイスとローテーブルが置かれた、アーバンリゾートの趣だ。
右奥の白い扉は山田の位牌が安置されている仏壇が納まる。
仕上げに砂壁や木材が多用されているため、ついRC造だということを忘れてしまう。これだけのロングスパンの天井スラブを支えるために、中央の柱は実は鉄骨で、木の柱に見えるように杉板で被覆されている。梁は逆梁だ。
120°の角度で開く大開口。赤いノムラモミジとサクラの花びらがつくり出すコントラスト。
公開時間前のひととき。展覧会でもあるため、貴重な図面や模型も展示されている。奥の左は展示を担当した岩岡竜夫 東京理科大学教授、右は山田守の研究者でギャラリートークの講師を務めた大宮司勝弘 東京家政学院大学助教。
知る人ぞ知る、山田こだわりの畳は、畳縁(たたみべり=畳の長辺につく帯)が片側にだけしかなく、軽やかに見えるよう演出されているというが、通常はご覧のようにカーペットが敷かれているため見ることはできなかった。
玄関、キッチン方向を見る。電話台がニッチに納まる。ニッチとキッチンの開口の角にもRが取られている。
キッチン。山田によるデザインで収納がびっしり。ガスコンロ以外ほとんどオリジナルのまま。家政学部で教鞭を執る大宮司氏によると、「システムキッチンの歴史的資料」とのことだ。
奥の茶室方向。開口の角はアクリルの曲げ板で200R。曇っているのは経年劣化によるもの。
角の室内側を見てもRがついている。階段は3階の現居住エリアで立入禁止。
茶室は縁側にせり出している。
ござが敷いてあり確認出来ないが、下には四畳半のため卍型の回し敷きされ、さらに天井のヨシ張りも鏡像のように回し敷きで中央に照明が設えてある。
引き戸の向こうは3畳の小さな部屋がある。
開放的な茶室。
1階に蔦珈琲店が覗く。庭には以前池もあった。
壁面のパネルには山田守建築事務所で保管されているオリジナルの手描き図面。これは座敷建具の納まりや柱の実寸図面で初公開だそうだ。
複写されたものは綴じられ、手にとって閲覧できた。
大型建築を数多く手掛け、住宅は自邸も含め4作のみ確認されている。
山田守。「一度本当の家に住みたいという老妻の希望もあり、65才にして初めて止むを得ず本当の家を建てることになった。」と言ったように、あまり乗り気でなかったようだがこのこだわりだ。
藤岡洋保氏のコメント。「山田の特長は、なによりもその造形能力の高さにある。その伸びやかな造形は他の追随を許さない。」「彼は、ディテールを緻密に整えるタイプの建築家ではなく、建物全体を一望する視線に耐え得る造形を目指した。広い敷地に自由に造形できる機会を与えられたときに力を発揮するという、日本では珍しいタイプの建築家と言える。」
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